本日は会社の人の身内に不幸があったため、葬式に参加してきました。
その際に受付周りのお手伝いをしていて、色々と感じることがあったので
お伝えしたいと思います。
■焼香のやり方などはそれぞれの家に関わる宗教によって違うので、
正直どういうやり方をすればよいのか?というのがわからなかったです。
今まで自分が参加した葬式は親族のものなので、いつも慣れている
様式によるものです。
ただ今回は浄土真宗?と言っていたような気がするので仏教式
によるものだと思います。
そして日本における大部分の家庭は仏教式によるものだと思うので、
今後のためにも基本作用は知っておく必要があると思いました。
■ではそういった葬式における基本作用とはどこで学ぶのでしょうか?
中学でも高校でも習わなかったです。
このように必ず必要なもの、は義務教育で教えてくれてもいいような気がします。
一番の身内である両親の葬式を執り行う際は、基本作用を気にするよりも
もっと大切なことがあると思うので・・・
■その葬式で見せる会社の人の姿はいつもの姿ではなかったです。
いつもはリーダーとして皆を引っ張っています。
そのため皆の前では強い面をみせています。
ただ家族、親族の中においては、リーダーという存在ではなく、
「息子」であり、「幼い頃からしっている子ども」なのです。
そう思うと、とても不思議な気がしました。
新たな一面を見てしまった、という感じです。
■人は誰しも多くの側面を持っています。
あるコミュニティーではリーダーであっても、
とあるコミュニティーでは参加者かもしれません。
ある一面では消極的かもしれないけれど、
とある一面ではとても積極的かもしれない。
一方では受動的であっても、
もう一方では能動的であるかもしれない。
だから本来ある一面だけで判断してはならない。
判断できないはずなのです。
職場において仕事があまりできない人でも、
趣味の場においてはとても元気いっぱいかもしれません。
その面を認めてあげたい。
認めてあげてよいのでは、そう思うのです。
■特に昨今の人間関係が希薄になっている世の中では、
さらに小規模の会社においては、
会社の人間同士はみな親密であり、家族でありたい。
ちょっと仕事が出来なくても、
いつもミスばかりしていても、
仕事にあまり熱心ではなくても、
家族の一員として、一人の人間として認めて、見守っていきたい。
そういう関係になれたらいいな、と思うのでした。
■さらに今回一番考えることは世の中の混在についてです。
葬式という「死」を受け入れる場に、小さな赤ん坊が参加していました。
赤ん坊はある意味「死」とは正反対の「生」を持ったばかりの存在です。
その「死」と「生」が同じ場所に存在することにとても不思議な感覚を持ったのです。
一方では亡くなった方を悔やみ、一方では子どもに笑顔で語りかける人々。
葬式という悲しい空間で、笑顔や笑いが起こる。
ここにはいったい何があるのだろう?
ふとそう思ってしまうのです。
■そう考えると世の中には混在したものがとても多くあります。
「正義があれば悪もある」
「陽があれば陰もある」
「裏があれば表もある」
「光があれば影もある」
どちらも世界に同じように存在している。
一方を求めれば、もう一方が遠ざかるようなジレンマがある。
そんな相反するようなものがそこにある感覚。
■普段からそこにあるのに気にしていなかったことを、
今回は感じることがありました。
どちらが正しいのではなく、
どちらも受け入れることが必要なのではないでしょうか?
どちらかのみを受け入れ、
もう一方を遠ざけることはできないのではないでしょうか?
なぜならどちらも対をなしているようで、裏と表の存在だから。
それに気づかず、一方のみを追い求めるとうまくいかないと思います。
それは本来両方あるべきものを排除することになるから。
一方を求める人を否定することになるから。
■矛盾だらけの世の中だけど、だから世の中は面白い。
あらゆることにそう思えるようになりたいと思うのです。