<48号 イラっとした原因について考えてみた>

■昨日は久しぶりに感情が揺さぶられることがありました。

というか、「イラっ」としたわけです。

私は普段そんなにイラっとしない方です。

何かあっても、
「仕方ないよね~」
「しょうがないね~」
「おもしろいこと言うね~」

と思えるのです。

しかし久しぶりにイラっとしたので、なぜそう思うのか
ということを考えてみました。

■その際のシチュエーションはこのような感じでした。

次のアポイントがあるため会社に滞在できる時間は1時間程度でした。

そして、翌日は福島、翌々日は仙台に出張することになっていました。

出張の準備をしなければならないため、
社内にいる事務担当の子にお願いをしました。

それは、仙台に行くので、午前中は新規の学校を訪問したい。

その学校のアポイントを取ってくれないか、ということでした。

その子にお願いした理由として、結局実行はされなかったのですが、
以前その子も同じように仙台近隣の学校を訪問することになっていて、
アポイントを取ったことがあったからです。

そのため、私よりはある程度知っているだろうと思い
お願いしました。

しかし、
「どの学校にどのようにアポイントを取ったらいいですか?
それがわからないと取れません。」

と言われました。

こちらとしては、どの位置にどの分野の学校があるかわからないから
お願いしたのです。

ゼロから探す時間がなかったのでお願いしたのです。

しかも以前に探したことがあるのを知っていたのでお願いしたのです。

なのにもっと細かく指示をもらわないとできないと言われたのです。

もっと細かい指示を出すには、こちらももっと時間をかけて調べなければ
ならないことがあります。

そうするとお願いする意味がなくなります。

そのため、「自分でやるからいいよ」と言ってしまいました。

「使えないヤツだな」
そう思いイライラしてしまいました。

■これを聞いて皆さんはどう思うでしょうか?

「お願いする人は、相手にわかるように
具体的に指示を与えなければならない」

お願いする方が悪い!
そう思うでしょうか?

それとも、「ちょっと気を利かせればわかるだろ?」
お願いされた方が悪い!

そう思うでしょうか?

私は、
「何でそんなこともわかんないの?」と思ってしまいました。

「何でこんな簡単なことを自分で考えられないの?」
と思ってしまうのです。

「ちょっと考えればわかるよね?」

「逆に何時と何時に2か所くらいでいいですか?」
ぐらいの質問できないの?

そう思ってしまうのです。

■しかしよくよく考えるとその基準は私自身の基準であって、
他の人の基準ではないんですよね。

それがわからないまま、私だけイライラしていても
まったくもって不毛なものです。

無意味です。

恐らく頼まれた子は、私がイライラしていることさえ
気づいていないはずです。

自分が言っていることは間違っていない、と思っているはずです。

しかし私は、「私が出来ると思ったこと」が、

「他人が出来ない事」に苛立ちを感じているのです。

■そこには、
「私が出来ると思っていること」は

「誰もが出来て当たり前」という信念が出来てしまっているのです。

その信念が破られたから、イラっとしてしまったのです。

しかし、その信念は絶対ではないのです。

正しくないのです。

自分が作ってしまった固定観念とさえ言えるでしょう。

この信念があるから、イライラする感情を作り出してしまっているのです。

だとしたら、この信念は必要ないと思うのです。

人にはそれぞれ能力の限界があります。

出来る、出来ないは私が決めることではなく、
その人本人が決めることなのです。

■それに気づいた時には、「あ~」と思ったものでした。

恐らく他にもこのような「変な信念」があるはずです。

そうした信念を破られた時に、怒りや憎しみが出てくると思うのです。

最近のイラっとしたことについて考えてみました。

皆さんも自分がイラっとしたことの原因について考えてみると
新たな発見があるかもしれませんよ。

スポンサーリンク
second




シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク
second