「与えられ慣れている」
それは「自主性」、「主体性」に欠ける
ということであり、
自身のやりたい事より
外からの刺激を待つということである。
■先日訪問した大学で、担当の先生が言った言葉です。
まさにその通りだと思い、
とても印象に残ったのでシェアしたいと思います。
日頃、就活中の学生と話をする中で、
ぼんやりしている学生が多いということを感じます。
それは表情や態度が、ということではなく、
考え方や価値観が、ということです。
働くに対しての決意や、
どういう仕事がしたいのか、
その仕事からどういう未来を描いているのか、
そういったことを明確に持っている学生が少ないのです。
■もちろん学生の時期からすべてをしっかりと持っていなければ
ならないということはありません。
働きながら、苦労しながら、褒められ叱られながら、
理想と現実のギャップをうめていくなかで見えてくるもの
はたくさんあります。
しかし前提としての心構えや在り方というものが
固まっていないため、こちらからの期待や要望が
響かない、届かない、伝わらないという現状があるように
思います。
だから自分がやりたいと思う仕事であっても、
親の意見や周りの視線を気にしすぎて辞めてしまう。
自分がどうしてもやりたいと強い意志を持って決断できない
ため、いつまでたっても迷っているのです。
その理由の一つが冒頭に書いた
「与えられ慣れている」
ということなのかと思うのです。
■これは今の学生だけに限ったことではありません。
よくよく考えるともっと上の年齢の人、
はたまた自分自身にさえ当てはまることが
あります。
「与えられ慣れている」
ということは、自分で何かをつかまなければならない
という意識がないということになります。
待っていれば誰かが与えてくれる。
自分達は与えてもらうのをただ待っているだけでいい
ということになります。
■それは社会においても、
「仕事は待っていれば誰かが持ってくるものである」
「よりよい待遇は年次がたてば増えてくるのを
待っているだけである」
「いいパートナーとはいつか出会えるまで
待っているだけである」
「将来の夢は浮かび上がってくるまで
待っているだけである」
「よりよい人生はそれが訪れるまで
待っているだけである」
ということにつながってくるのです。
■そこには「自主性」や「主体性」というものがなく、
「受け身」であり「受動的」であるのです。
究極的には「自立」が出来ていないのです。
何か不満があった際に不平不満を言うだけで終わって
いないだろうか?
他人や環境や会社のせいにしているだけではないだろか?
誰かが何かしてくれると思って待っているだけに
なっていないだろうか?
ふと改めて考えてみると自分自身にも当てはまることが
あります。
その原因を自分事として捉え、
自ら得ていくということをしていかなければならないのです。
「責任を持つ」
「自分事として捉える」
「主体的に動く」
「自ら行動する」
「自律する」
何か期待する結果を得たいならば、
こういったことが必要なのです。
あなたは与えられるのを待つだけですか?
それとも自ら勝ち取っていきますか?