<77号 与えられ慣れている人>

「与えられ慣れている」

それは「自主性」、「主体性」に欠ける
ということであり、

自身のやりたい事より
外からの刺激を待つということである。

■先日訪問した大学で、担当の先生が言った言葉です。

まさにその通りだと思い、
とても印象に残ったのでシェアしたいと思います。

日頃、就活中の学生と話をする中で、
ぼんやりしている学生が多いということを感じます。

それは表情や態度が、ということではなく、
考え方や価値観が、ということです。

働くに対しての決意や、
どういう仕事がしたいのか、
その仕事からどういう未来を描いているのか、

そういったことを明確に持っている学生が少ないのです。

■もちろん学生の時期からすべてをしっかりと持っていなければ
ならないということはありません。

働きながら、苦労しながら、褒められ叱られながら、
理想と現実のギャップをうめていくなかで見えてくるもの
はたくさんあります。

しかし前提としての心構えや在り方というものが
固まっていないため、こちらからの期待や要望が
響かない、届かない、伝わらないという現状があるように
思います。

だから自分がやりたいと思う仕事であっても、
親の意見や周りの視線を気にしすぎて辞めてしまう。

自分がどうしてもやりたいと強い意志を持って決断できない
ため、いつまでたっても迷っているのです。

その理由の一つが冒頭に書いた

「与えられ慣れている」

ということなのかと思うのです。

■これは今の学生だけに限ったことではありません。

よくよく考えるともっと上の年齢の人、
はたまた自分自身にさえ当てはまることが
あります。

「与えられ慣れている」

ということは、自分で何かをつかまなければならない
という意識がないということになります。

待っていれば誰かが与えてくれる。

自分達は与えてもらうのをただ待っているだけでいい
ということになります。

■それは社会においても、

「仕事は待っていれば誰かが持ってくるものである」

「よりよい待遇は年次がたてば増えてくるのを
待っているだけである」

「いいパートナーとはいつか出会えるまで
待っているだけである」

「将来の夢は浮かび上がってくるまで
待っているだけである」

「よりよい人生はそれが訪れるまで
待っているだけである」

ということにつながってくるのです。

■そこには「自主性」や「主体性」というものがなく、

「受け身」であり「受動的」であるのです。

究極的には「自立」が出来ていないのです。
何か不満があった際に不平不満を言うだけで終わって
いないだろうか?

他人や環境や会社のせいにしているだけではないだろか?

誰かが何かしてくれると思って待っているだけに
なっていないだろうか?

ふと改めて考えてみると自分自身にも当てはまることが
あります。

その原因を自分事として捉え、
自ら得ていくということをしていかなければならないのです。

「責任を持つ」

「自分事として捉える」

「主体的に動く」

「自ら行動する」

「自律する」

何か期待する結果を得たいならば、
こういったことが必要なのです。

あなたは与えられるのを待つだけですか?

それとも自ら勝ち取っていきますか?

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