今日はとある本からのご紹介です。
何か新しい事を学ぶ際、
それはスポーツであっても、趣味であっても、
仕事であっても、
誰しも早く上達したいと思うことでしょう。
また、
「誰かと比べて自分は上達が遅いんだよな・・・」
そのように比較して、自分にダメ出しをしていませか?
■もちろん、早くに上達すれば、
より一層やる気が出て、楽しめるかもしれません。
ただ、始めて短期間で上達することが
本当に良い事なのでしょうか?
長い目でとらえた時、別の見方ができるのではないでしょうか?
それを考える際にとてもよい話を紹介したいと思います。
■『初心禅心』(翻訳、白馬書房刊。原稿は英語版)
という本で鈴木俊隆禅師は、上達の早い者と遅い者を
馬にたとえて述べています。
「禅の経典によると、馬には4種類(最高の駿馬、ふつうの駿馬、駄馬、最低の駄馬)がある。
最高の駿馬は、鞭の影さえ見えないうちから、
騎手の意思に従ってスピードや方向を変えて走る。ふつうの駿馬は、鞭が馬身を叩く直前になって初めて
最高の駿馬と同じように走る。駄馬は、馬身に鞭の痛みがしみなければいうことをきかない。
そして最低の駄馬は、骨の髄まで鞭の痛みが伝わらなければ
いうことをきかない。
上手に走るための学習は最低の駄馬がいちばん難しいはずだと、
読者はおもうのではなかろうか。・・・たいていの人は最高の駿馬になりたいと思う。
最高の駿馬がだめなら、ふつうの駿馬になりたいと思うだろう。」
鈴木師は、それは間違いだという。
あまりに簡単に覚えてしまうと、真剣に努力する気がしなくなり、
練習の核心部分まで突き進めなくなるというのだ。
「書道を研究すると、それほど器用ではない人が
一流の書家となっていることに気づくだろう。かなり器用な人は、ある段階に達すると大きな壁にぶつかることが
多い。これは芸術であれ人生であれ、同じようなことだ。」
鈴木師によると、最高の駿馬が最低の駄馬となり、
最低の駄馬こそが最高の駿馬になるのだという。
辛抱してたゆまぬ練習を続けるうちに、真髄を学びとるからなのだ。
■この鈴木師の4種類の馬のたとえを知ったとき、
とても腑に落ちるものがありました。
これが、才能を持つ者への戒めであることは確かでしょう。
と、同時に、上達に必要な要素は
才能の有無ではないということも明言しているのです。
つまり、誰しもが継続することにより、
その道のプロとして道を極めることができるのです。
■たとえ今、芳しい結果が出ていないからといって
すぐに諦める必要はないのです。
そもそも一流となれるには、
相当の時間と練習が必要なのです。
だからこそ年数をかけて自分を磨いていけばいいのです。
たった数年の努力で
自分には才能がないとあきらめるのは間違いなのです。
■はたまた、他人と自分との上達の度合いを
比較することには何の意味もないのです。
要は長い年月をかけてでも続けていくだけの
情熱があるか否かということ。
本当に突き詰めたいほど好きかどうか。
どうしてもその道を極めたいという想いがあるか否か。
そういうことだと思うのです。
みなさんには極めたい道はありますか?
あるならばそれを続けていけば、必ずその道を極めることができるのです。