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妥協は本人だけの問題ではない。指導者にも妥協がないかを意識すべし。
妥協は、成長を止めます。
これは事実です。
でもこれは単に責められるもの
ではありません。
なぜなら、
自身とっての
「妥協」
とは
「現実可能性」であり、
決して楽をしたいがゆえだけの
視点だけではないからです。
「これくらいでいいだろう」
という考え方は
「自分なりには頑張った」
ということであり、
決して甘えだけからくるものではないのです。
(もちろん単に甘えて妥協している場合もありますが・・・)
でも、一方で
「自分なりには頑張った」
という基準は
今の自分のレベルでの基準であり、
その基準が
「高いか否か」
は別物なのです。
本人としては頑張ったつもりでも、
周りからみるとまだまだ足りない・・・
ということは往々にして起こりうるものです。
指導者の基準も重要である
だからこそ指導者が必要なのです。
本人では気がついていないことを
指摘・指導してあげる存在が必要なのです。
「キミはもっとできるはずだよ。
これぐらいで満足できるものではないよ。」
と、本人の甘い基準を
正してあげるのです。
ここで重要なのは、
逆に指導者が妥協してしまうことです。
「確かにまあ頑張ったんだから、
それぐらいでいいか」
という妥協をしてしまうと、
教わる側も
「指導側がそういうから、いいものだ」
と、一緒に妥協をしてしまいます。
教える側も妥協してはダメなのです。
さかのぼると、
指導者にも指導者がいて、
仕事のやり方や基準というものについて
指導を受けてきています。
その基準が脈々と続いて
今に至っています。
個々人の妥協に関する意識があるにせよ、
また幸か不幸か無意識にせよ、
誰にも妥協してしまっている可能性は
捨てきれないのです。
あるべき評価基準とは
そのため、
「頑張ったかどうか」
という基準ではなく、
「できるはずのことをできたかどうか」
という基準であることが
評価には大事なことなのです。
「頑張ったから」
「よくやったから」
「遅くまで取り組んでいるから」
「泣いているから」
などといったことを基準にしてしまうと、
どんどん妥協の言い訳を与えていることになります。
「キミはこれだけできるはずだから、
是非ともやってみよう!」
という正しい評価と意欲醸成こそが
指導において大事なのであり、
それは教える側自身の妥協
との戦いでもあります。
妥協は本人だけでなく、
指導者にとっても敵なのです。
そのために
個々人一人が自身の基準だけで取り組むのではなく、
周りと協力して
つねに最善を尽くしていくような
関わり方をしていきたいものです。