1265道 葬式という「死」が満ちる場だからこそ「生」の生命力が際立つ

生と死のはざまに

親族のお葬式に参列してきました。

多くの人に惜しまれながらの
お別れの会でした。

そんなお葬式で感じたこと、その話です。

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我が人生に悔い無しといえる人生とはどのような人生だろうか?

「どんな人生を過ごすのか」

ということを考える際に
こんな話を聞いたことがないでしょうか?

「あなたのお葬式で多くの人が集まってくれました。

みんな泣きながら、惜しみにながら
あなたのことを語り、話し合っています。

さて、その際にあなたは

『どんな人だったね』

と言われたいでしょうか?」

という話です。

今回、葬式に参列して、
悲しくもありながら、

「もし、この葬式が自分自身のものだったとしたら
どうなるのだろう?」

といことを考えさせられました。

もし、死んだ後にも魂があるとして、
自分の葬式を上から見れるとしたならば、

どんな人だったと言ってもらいたいだろう?
そんな風に考えてしまいます。

「元気な人だったね」
「笑顔が素敵な人だったね」
「人のために役立つ生き方をしていたね」
「親身になれる人だったね」
「悩んでいるときによく相談にのってくれた」
「人として尊敬できる人だった」
「魅力的な人だった」

などなど、

「自分自身が生きた証」

として何かを残して逝きたいと思うものです。

決して偉業などである必要はありません。

私自身が満足、納得できるものであれば
それで何の問題もありません。

私にとってのその「何か」というものが、

「自分自身の道を歩んだ」

ということです。

その道がどんな道なのかは、
今ははっきりと明言することはできません。

何を残せるのか、残したいのか、
というこも明確ではありません。

でも、せっかく与えられた命であり、
私が生きた人生である以上は、

「自分と関わる周りの人にいい影響を与えられる人」

でありたいと思うものです。

死もあれば正もある

もう一つ、お葬式で感じたものがあります。

それが、

「死と生」

です。

大人である我々からすると、

「お葬式とは故人との別れをする場」

であり、しんみりと静かに過ごすもの
というイメージをもっているものです。

でも、小さな「子ども」がいると、
そんな葬式の場だからといって遠慮することもなく、

わいわい叫べば、
飽きて騒ぎ出したりと、

好き勝手に振舞うものです(笑)

子どもだから当然といえば当然ですよね。

子どもに常識や空気を求めても仕方がないものです。

でも、そこでふと思いました。

「死という圧倒的静寂もあれば、
正という圧倒的生命力もある」

ということを。

そして、子どもはまさに生命力というものを
体現した存在であるということを。

子どもがいると
その場の空気はいい意味で一変します。

明るくなります。

子は宝といいますが、
まさにその通りであることを

お葬式という場所だけに
強く感じるのでした。

死を嘆くのか。生を喜ぶのか。

死は悲しいもの。

でも、生があれば、死は必ずついてくるもの。

それ自体を嘆くことには
何の意味もないのです。

終わりがあるからこそ、
「今」という時期を充実させるべく過ごせるものです。

であるならば、

終わりである死を嘆くよりも、
今という生を楽しみたいと思うのです。

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