1021道 もっと、もっと、もっと、の先に得られるものは何なのだろうか?

高い山

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もっと、もっと、もっと、の先に得られるものは何なのだろうか?

「もっと」良い自分になれば、
「もっと」違う自分になれば、
「もっと」今よりも頑張れば、
「もっと」努力すれば、
「もっと」ハードに取り組めば、

もっと、もっと、もっとを繰り返せば、

今よりもきっと
素敵な未来が待っている!

そんな風に思うことありませんか?

実は、私はそう思っています。

人生は常に成長であり、
成長することが生きる意味でもある
と思っています。

努力を続け限り、
今よりも成長できることは事実だと
思います。

だから今よりももっとを繰り返すことは
成功の秘訣であると信じています。

でも、一方で、
こんな風に思うこともあります。

「常に上に向かっているのは
ときにはつらく、苦しいことだ」と。

努力している瞬間は満足するのですが、

しばらくするとそれも当たり前となり
物足りなくなり、

更なる目標が必要になってきます。

何かに向かって頑張っていないと
刺激が足りず、

心を満たすためにがむしゃらに動き
身体は疲れていきました。

それでも、
成長の実感はあるので、
そのパターンを続けることができるのです。

弱い気持ちは
今の環境を守る言い訳であると
思うようにしています。

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頭で理解していることと、心が感じることのギャップはどうすれば?

そんなときに思うのです。

「この先に何があるのだろう?」

「成長の結果として何が得られるのか?」

頭ではその答えはわかっています。

「成長の結果に見える景色がある」

ということを。

もしくは、

「成長はゴールではなく
その過程に意義があるのだ」

と。

でも、頭ではわかっていても
気持ちがついていかないこともあるのです。

なので、
常に前進・向上するだけでなく、

今の歩みを振り返ることも
必要なのです。

「理屈と心と体のバランスを整える」

ことも必要なのです。

長距離走にはそれに見合った戦略が必要である

そのタイミングを無視して
どれかひとつを追い求めすぎても、

なにかのきっかけで
崩壊してしまうこともあるのです。

人生は短距離走ではなく
長距離走です。

単に早く走ればよいものでありません。

自分のペースで走ることが
ゴールまでたどり着くために必要です。

ゆっくり走るからこそ見える景色もある。

たまに立ち止まるからこそ
わかることもある。

走るペースに画一的な正解なんて
ありません。

すべては自分自身のペースで決めればいい
のです。

その前提として必要なことは、
自分と他人を比べないということです。

自分より能力や結果を出している人をみると、
自分はまだ未熟だ、至らないと感じてしまう。

だからこそ頑張らなければならない
と意気込み、取り組む。

でも他人と比較することで
自分を奮い立たせるととは、

本当の意味で
自分を受け入れていないことです。

今の自分、今までの自分を否定したまま、
良くしよう、変わろうとすることは、

ゴールのないゴールへ向かって
進むことになるのです。

その過程がどれだけつらいものか…

道を極めるための途中において感じていること

ありのままを受け入れる
勇気を持てた時、

自分は自分であっていいと
全ての自分を肯定できるのです。

自分のを不完全に肯定することができた時、

生まれてきた意味や、
人生の目的に気づき、

自分の生きる道を歩み始めることが
できるのです。

今までの体験はすべて
今の気づきにたどり着く必要な経験
だとわかったときが、

新たな一歩を踏み出すときなのかも
しれません。

今はまだ私自身に明確な答えがある
わけではありません。

またその答えがわかることなんて
永遠にないのかもしれません。

でも、今時点での自分の解釈があること
だけでも

道しるべであり
歩む方向が定まることを感じています。

そんな道半ばにして感じることを
共有させていただきました。

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