「金メダルの器」と発言できる想いの強さを感じざるをえない
平昌冬季五輪の
ノルディックスキー・ジャンプ女子ノーマルヒルで、
高梨沙羅さんが銅メダルを獲得しましたね。
前回のオリンピックが無念の4位ということで
今回こそはと挑んだオリンピックでした。
ニュースでも連日取り上げられていて
どうなるのか気になっていたものです。
結果は、銅メダル。
応援する観客者としては
銅メダルでも十分だと思うのですが、
本人からすると
きっと悔しい結果だと思います。
そんな高梨選手は、競技終了後に、
NHKのインタビューに応じてこう語りました。
「目標にしていた金メダルには届かなかったんですが、
最後の最後に渾身の、ここにきて一番いいジャンプが飛べた。なにより日本のチームのみんなが下で待っていてくれたのがすごく嬉しくて。
結果的には、金メダルをとることはできなかったですけど、自分の中でも記憶に残る、
そして競技人生の糧になる、すごく貴重の経験をさせていただいたと思います」
「ソチオリンピックからの4年間、悔しい思いをバネにここまで来たつもりではいるんですけど、
やはりまだ自分は金メダルをとる器ではないとわかりましたし、
まだまだ競技者としてもっと勉強していかなきゃいけない部分もたくさんある。
周りの先輩たちから、いろいろなことを学んで成長していきたいなと思います」
私が凄いと思ったのは、
「金メダルの器」
という発言です。
言葉は人を表す
その発言から、
金メダルを取るということは
単に成績が良ければいいということでなく、
それに見合うだけの
心・技・体を備えていなければならないという、
高梨選手が描くとても高い
「金メダルの基準」
というものを感じさせられました。
人の発言する言葉の節々には
その人の価値観が見え隠れします。
特に競技後の気持ちが高ぶっている際は
ありのままの言葉が発せられ、
そのコメントには強い想いが現れるものです。
だから
「金メダルの器」
という言葉には、
「器としてあるべき人間性」
が必要であるという
理想の姿があらわれているのです。
身体とメンタルの強さを鍛えるスポーツ選手の
想いの強さ、言葉のチカラについて
改めて考えさせられました。