1084道 たとえ誰も見てなくともお月様は見ている。それはつまり「自分自身」が見ているということ

月は見ている
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たとえ誰も見てなくともお月様は見ている。それはつまり「自分自身」が見ているということ

「西瓜泥棒」という寓話を
読みました。

本来は、悪事は必ずばれるから
嘘をつくのはやめようという話だと思います。

でも私はこの寓話から、

「自分に嘘をつかない」
「自分を信じる」

ということを
感じたのです。

それについての話。

皆さんはどう感じるでしょうか?

西瓜泥棒

ある夏の夜、農家の婦人が幼き子を連れて
我が家へ帰る際、

畑に熟した西瓜が坊主頭の並ぶがごとく
連なっているのを見た。

月は澄み、まるで昼のようではあったが、
人通りのない、夜中の田舎道のこと、
婦人はふと良からぬ心を起こした。

たくさんある西瓜の一つばかりを
盗ったとしても分かりはしまい。

そう思った婦人は子を見張り番に立たせ、
畑の中に入って、一番大きな西瓜に
手を伸ばそうとした。

しかし、なんとなく良心がとがめるような
気持ちがして、止めておこうかとも思ったが、

誰に知れることもないからと
再び手を伸ばそうとした。

念のためにと、
見張り番をさせている子に声をかけて

「誰も見ていないか」

と聞いたところ、子どもは言った。

「お母さん、大丈夫だよ。
お月様の他は誰も見ていないよ」

この一言に婦人は震え上がるほどに
良心の痛みを感じ、
恐怖を抱きながら子のそばに駆け寄った。

「おお、よう言ってくれた。
誰も人は見ていなくても、神様には
見られているのだった。

浅ましい出来心から
取り返しのつかない罪を犯すところだったが、

お月様が見ているとお前が言ってくれたおかげで
この罪を免れた。お前は天の使いである」

そう言って婦人は子を抱き上げて、接吻した。

悪魔の声のきっかけは些細なもの。でもそれが積み重なると大きな罪になる

悪事を犯すかどうかについては
多くの人が逡巡するものです。

でもそんな時に、

「大丈夫だよ、誰も見ていないよ。
それに大したことないよ。

誰もが似たようなことをしているよ。
一個ぐらい盗ったってわからないよ」

悪魔の声が聞こえてくるものです。

その声に流されるまま
悪事に手を染めてしまう。

その後は、

「一度も、二度も同じだよ。
いまさら過去は消せないし。」

と何度も繰り返してしまう。

そんな悪の循環について
容易に想像できるものです。

これは何も悪事ついてのみ
生じる心理ではないと思います。

例えば、

「やろうと決めたことができない」

ということに対しても
同じことが生じていると思うのです。

つまり、

「誰も見てないからさぼっても問題ない」

という心理状況になっているということです。

周りの目を気にせず自分の生きる道を信じる

自分以外は誰も見ていないから、
ちょっとぐらいサボっても何の問題もない。

そう思うかもしれません。

それは正しくもあり間違ってもいます。

見ているのは自分自身。

でもその自分自身こそが

「自分の進む道」

を決めるのです。

周りの目や評価は
欺くことができるかもしれません。

でも自分自身を欺くことはできません。

自分を信じることができない者に、
先が見えるはずもありません。

人が見ているか見ていないかで
己の言動を変えることを
どのように感じますか?

胸を張っていられるでしょうか?

常に自分が正しいと思えることだけを
なすような人間でいたい。

この寓話から
私はそのように思うのです。

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